2008-02-29

死ぬを理解する

最近、Cちゃんは「死ぬ」とはどういうことが考えるようになったそうです。
少し前にペットが死んだときには、言葉では「死んだ」と言っていたけど、
それは、その状況をなんて言うか教えられて言っていただけで、
本当の意味で「死ぬ」とういうことがどういったものなのかは、わかっていなかったのだと思います。
ペットが動かなくなった状態は、「死ぬ」という。
でも、それが、ペットと自分との関わりがなくなる、声をかけたり触ったりすることがなくなることだと想像して、
さびしいとか悲しいとか感じることには至らなかったのでしょう。
ところが、ある日、ゲームのたまごっちが死んでいる(ゲーム上)のを見て、さめざめ泣いていたそうです。
思い通りにならなくて怒って泣いている様子ではなく、さめざめと、悲しい泣き方をしていたそうです。
それ以降、亡くなったおじいちゃんのことを聞いてきたり、死んだらどこにいくのか質問してきたり、
「死ぬ」ということについて疑問を持ち始めたようなんです。
自分は体験していないし、目の前に何かが現れるわけではないのに、
そのことを想像して、その時に感じるであろう感覚を思い描こうとしているようです。
今のところ、おばあちゃんになったら死んで、空にある天国というところに行って神様という人と暮らす、
また、Cちゃんは死にたくないから、おばあちゃんにはなりたくないそうです。
私も、Cちゃんと同じ年の頃、「死ぬ」ということが気になっていた時期があります。
夜眠りにつくときに、死んだらどうなるのか考えていました。
でも、どうなるのか結局よくわからなくて、よくわからないけど(わからないからだったのかもしれませんが)、
怖いから死にませんようにって思っていました。

言葉の理解は、目の前で起きていることだけでなく、想像して意味を捉えないといけないことが出てきます。
出来事の想像の中に自分を置いて、それに伴うであろう感情を意識したときに始めて理解できたというのではないでしょうか。
では、そんな想像と感情が育っていくために必要なことは何か。
まだまだ脳の機能や発達は解明されていないことが多いのですが、脳がいろいろなことを理解する大事な過程があります。
それは、目の前で起きる具体的なことを身体で感じる感覚を伴わせて学習してきたかということです。
人の想像や感情は全て脳の中にあり、そして、脳の学習の全ては身体の感覚がフイードバックされて理解となります。
だから、いろいろな出来事において身体で感じている感覚の延長が、
脳の中で起こる複雑な感情を育て、それを言葉で表現することを育てているのではないでしょうか。
たとえば、子どもたちは、小学生になって算数を習うよりずっと前に生活の中で感覚的に算数を学んでいます。
兄弟でお菓子を分けるとき、お手伝いで家族の人数だけ茶碗を並べるとき、パンツの次にズボンを履くとき、
日常生活の中で算数に出てくるいろいろな概念にあたることを身体で感じています。
身体で感覚的に学んでいることがあるからこそ、小学生になって、それを言語(数字)にしても理解できるわけです。
脳の発達には、身体からの多くの感覚を伴うフィードバックが必要で、
その発達の延長線上に、目に見えない状況や自分の感情、さらには他者の感情の理解があるのではないかと思います。

ずいぶん昔、あるお母さんから聞いた話があります。
発達障害があるお子さんが、目の手術をしたおばあちゃんのお見舞いに行ったときのこと。
顔に包帯を巻いているおあちゃんを見て、「死んでる」と言ったそうです。
もちろん、本人には全く悪気もなく、でも悲しい感情もなく、ただ状況を述べたのだと思います。
そのお子さんは、療育で、白い布を顔にかぶせて寝いているカードで「死んでる」という言葉を習っていたそうです。

カードで学んだだけの言葉は、やはり、カードの名前付けにしかならないということです。

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